昭和45年12月08日 朝の御理解
御神訓 一 「過ぎたる事を思い出して腹立て苦をするなよ。」
過ぎ去った事、過去の事を思い出して腹立て苦をするなよと。思い出しただけでも虫酸が走ると、ね、思い出しただけでもやっぱ腹が立つといったような事があります。私は、ここんところは、そういう簡単なことじゃないと思うですね。過ぎたる事を思い出して腹立て苦をするなと。ことをそのままでいきゃ、もう過去の事、過ぎ去った事、ね、それを思い出しただけでも腹の立つことがある。
あの時のことを思うと今っちゃ腹ん立つと言う様な。ね、本当に思い出しただけでも虫酸が走るといったような事を申しますが、私はそういう簡単な事ではなかろうと思うです。で立教神伝の最後のところ読んでみましょうね。「世間になんぼうも難儀な氏子あり。取次、助けてやってくれ。神も助かり氏子も立行く。氏子あっての神、神あっての氏子。繁昌致し末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立行く」と。
私共が難儀から救われる。それも救われるという事だけではなくて、助けれられるというだけではなくて、その救われ助かった事が、氏子も立行くという事。神も助かり、氏子も立行くという事になってこなければならん。そういう助かりでなければならん。私共の願いが二つ三つ成就したといった意味での助かりでは駄目だと。ね、その助かりが神も助かるという事、私共も立行く。ね、
そこんところがね、神も助かり氏子も立行くということ。そういうおかげを受けたらね、もう氏子がそこから立行くおかげが頂けなければいけん。ずうっと。ね、ですからこれは、ま、言うなら、根本的な救いを頂かなければならない事が分ります。しかもそういう救いになり助かりになって参ります時にです、例えばまあ金銭なら金銭の事に致しましょうかね、金銭の初めの間はまあその日暮し的なお繰り合わせ。明日どこどこにいくら借金払いをしなければならんから。
どうぞお繰り合わせ頂きますようにと言った様な助かりからね。それが段々段々実力を得て、いわゆる氏子繁昌致し末々とこう、私共が繁昌していかにゃいけんのです。だから、いつまでもその日暮じゃいけないわけなんです。繁昌していかなければいけない。その繁昌していかないとですね、その親にかかり子にかかりと、こうおっしゃっておられますその、神さまが氏子にかかって下さる事が出来んのです。ね、
親にかかり、親がかりばっかりじゃいかんわけです。だから、おかげを頂くという事はね、まあ親にかかった訳ですけれども、今度はそんならその私共がおかげを受けたら、私共に今度は神さまがかかって下さる程しのおかげになってこなければいけんのです。そういう事になりますよね。ところがなかなか、そういうおかげになっていく人は非常に少ない。まあ金銭の事ならば、あの氏子がおってくれるからと言われる。
いやこれは金銭だけの事じゃありませんよ、すべての難儀な氏子と、こうおっしゃいますから、すべての事なんです。けどもまあ分りやすく言うと、金入り、親が金の入り用がある。いついつはいくらの金が要るがと。ああそうですかと、子供が持って来てくれる。これが本当に、いわゆる子にかかった訳です。私共は、ただ、どうぞ金銭のお繰り合わせをお願いします、金銭のお繰り合わせをお願いしますと言うて、そのお繰り合わせを頂いていくだけではつまらない。
親にかかったらまた、子にかかって頂けれるだけの実力を受けていかねばならん。それが繁盛である。氏子繁盛いたしと、おっしゃっておられる。ところが、なら立教神伝このようにあります、そのような助かり方をしてゆく氏子は実に少ないという事なんです。それはね、過ぎたる事を思い出して腹立ち苦をするなよと、御神訓下さってある、ね。私共の、まあ、腹も立たんし苦にもなってはいないけれど、おかげにはなっていないという事が原因じゃないでしょうかね。
難儀な事に直面致します。おかげで、どうやらそこんところの難儀を難関を突破させて頂きます。ね、けれどもそれは、そこをただおかげを受けてきたというだけ。突破してきただけ、神さまのおかげで通りぬかさせて頂いたというだけ。だから、ま、ほんとんあん時はあげなおかげを頂いたと思うてもですね、けれどもそれは腹こそ立ててはいないけれども、苦にこそしてないけれどもです、ね。
私は、それだったら腹立て、苦はせんにしてもです、信心しよってもやっぱり、腹立て苦をするなよとおっしゃるけど、やっぱり腹を立てる人もありましょうね。という事は、本当にあん時ああいう難儀に遭うとらなかったら、いまごろはまちっと、ましなけれどもというような事なんです。けども合楽で御信心を頂いておる人達は、そこはなかろうごとあるですね。皆さんの場合。
あん時にああいう損害を受けてなかったら、今はまちっと楽なけれどもと、過ぎたる事を思い出して苦をしておるような事は、まあ無いように思いますね。まあ十年、二十年と信心の稽古をした人なら。けれどもね、それを本当におかげとしきってない、おかげと思いきってない、ただ通りぬけただけなんだ。そうするとね、まあ、腹立て苦をするなよとおっしゃるが、まあ腹立て苦はせんにしても、まあ五十歩百歩です。
過ぎたる事、それは私は、ね、過去というだけではなくて、その過去に起きてきたいうならば悩みとか難儀、いわゆる難儀の事だとこう思います。教祖さまの御教に、難はみかげと教えて下さるです。ね、四神さまは、難あって喜べと言うて下さる。果たして喜べておるだろうか。果たして難がみかげになっていきよるだろうか。難儀なところをね、通りぬかせて頂いただけでは、難はみかげにはならんのですよ。
難儀があった、たいへんないわば難儀であった。けれどもね、その難儀のおかげでね、そこからおかげの道が開けてきた、というのであって初めて、難を喜ばしてもらう事も出来れば、難はみかげという事も言えるのですね。ですから難を難とだけ受けて、またそこを通りぬかせて頂いたというだけならね、まあまあ、言うなら諦観、諦め、諦めにしかすぎないのです。だから諦めにしかすぎないであるとするなら、ね、これはもう腹立て苦をするという事と五十歩百歩です。ね、
ハッキリ、そこのところをです、難をみかげと言えれる信心がなされなきゃならん。そこにですね、氏子繁盛致しという事になるのじゃないでしょうか。ね、末々、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立行く道というのは、私共がです、ね、ま、分りやすく簡単に言うと、難を難のたんびに、おかげにしていけれるという事は、もう繁盛の一途をたどるということです。
繁盛していきよるから親が子にかかる事が出来る、という訳になるのじゃないでしょうかね。そこんところを合楽では随分と、難はみかげ難あって喜べと、ね、難はないと、難、即いわゆるみかげだと言う様なおかげを頂いて、教えもまそこに焦点が置かれとるくらいに、こう、いわば御理解に頂きますけれど、本当にその難をどれほどおかげにしていきよるかという事を一人一人の信心を検討して参りますとですね。
やっぱり難のために挫折、ある意味では挫折したり、伸びよったのが伸び悩んだり、いわばやっとかっとそこを通り抜けたというにすぎないような、私はおかげではなかろうかと思うんです。親がかかって下さる程しの繁盛になってない。ね、言うなら節から<芽>が出る、節から伸びるといったような事になっていない。私今日御神前に出らして頂きましたらね、あの蓮根を頂くんですよ。で、蓮根のこう節がありますよね。
節々の黒いところがこうえらい黒くしとる。そしてからスポーッとした竹んごとある蓮根ば頂きましたもんね。こうだいたい太らにゃいかん。こめなとがいあkんでしょうが、ところがその節のところは、こう毛が生えちから黒々しとるばってんですね、先の方がいっちょん太っとらん。ただ、スポッとしとる、といったような蓮根を頂くんです。はあこれが合楽の人達のおかげのまあ、姿だなと私は思いましたね。
この節のたんびに、その節からばぁっと大きゅうならにゃいかんとですたい。ただそこのところを通り抜けただけだと。そしたら今日頂きます、「過ぎたる事を思い出して、苦を腹立てるなよ。」という事と、そのいわゆるこの、天地の親神さまの氏子に、かけて下さる願い、また神さまも、そこを頼りにしておられるというところの、立教神伝の最後のところを頂くのです。
そこで今日は、まあ、ちょっと突飛な感じでしたけれど、どういう事であろうと思うたけれど、なるほど過ぎたる事を思い出して腹立て苦をするなよと、おもう、ね、だから本当にあの時の事を思い出すと腹ん立つ、あの時の事がなかったならばと、いわば死んだ子供の年を数えるような事を思い出してです、ああ、こげな事を思うちゃいかん、思うちゃいかんと頭を打振って思わんというだけのこっちゃないち。だから、そういう簡単な事じゃなかろうごたると、私は気が付いたんです、ここで。
ね、私はその過ぎたる事というのは、過ぎた事の過ぎた過去にです、様々な事があった。ね、腹の立つ問題もあった。大変損をした問題もあった。災難に遭った事もあったと。過去、その過去がですね、その一つ一つがおかげの元になっておったという事にならなきゃならないという事だと思う。してみると、過去のすべての事に対して腹立て苦をする事ではなくて、過去のすべてに、あの時にああいう事のあったおかげで、こういうおかげ頂いたという事になる。
合楽教会がここに設立されるという、なら過去十何年間のま、合楽の信心の当初の事から、じーっとこう思うてごらんなさいませ。本当にああいう事もあった。こういう事もあった。いわば血の涙が流れるような思いを、みんなでしたような事もあったけれども、そのあった事のおかげで、その都度に合楽は繁盛の一途をたどってきた。してみると、あの事はおかげじゃったなと言える訳なんです。
合楽の教会自体は、そのようなおかげを頂いてきたが、果たして、なら各々の信心、銘々の家庭の上においては、果たしてどうであったかという事になる。そこでね、どういうところがそういう信心に育たんのか、そういう信心になっていかんのか。ただ、その節を乗りこえておるけれども、節からいわば大きくなってないという事は、その節の受け方と言うか、その難儀の受け方がですね、おかげになるような受け方になってなかったという事を、まず思わなきゃならんとおもいます、ね。
それは垢抜けした、ね、スキッとしたいわば受け方とでも申しましょうかね。でないとですね、いわゆる神さまの本当の願いであるところの、ね、神も助かり氏子も立行くという事になってこない。氏子が立行く、私共がそのことから立行く事になってきた。神あっての氏子、氏子あっての神、繁盛致し、末々、親にかかり子にかかりという、神さまにだけはかかってきたけれども、神さまからこちらにかかって下さる程しの何ものも出来てなかったという事が言える。まあ、極端に言うとね。
おかげ受けてきてますよね、みんな。けれどもまあ本当にここんところ、おかげ頂かなければならんから、まあ出来なかったものとしてです、ここは一遍、頂かにゃならんところじゃなかろうか。段々おかげを頂いていきよります。けれどもまあ、あの時の節、あの時の難儀を、もっと素晴らしい、ね、受け方をしていっとったら、そこから本当にもっとハッキリした枝葉が出たにちがいないと、こういう事なんです。
言うならば、今日、私が<御心願>に拝ませてもらった蓮根じゃなくて、本当に蓮根らしい蓮根ですね、ざーっと丸くなって、大きくなっていくような、おかげになっておらなければならん。それが竹のごたる、スポッとした節<であるという事。繁盛致し、ね、いわゆる繁盛のもといが、そういう過ぎたる事を思い出す、て腹の立つ程しの事柄が、過ぎたる事を思い出したら、本当にあの時にああいう事のあったおかげでという事にならなきゃならんという事になる。
昨日、むつやの信司さんがお参りをして参りまして、まあ大変広大なおかげを頂いてお店の上に、茂さんと二人で改まってのお礼に出て参りでした。そのお礼お届けの後にです、「先生、実は今朝方、こういうお夢を頂いた」とこう言う。どういうお夢じゃったかと言うとね、合楽の方達と全部、山登りしとる。ところが、その山の中腹で親先生がいわば現れなさった。そしてその御理解の座が出来た。そんでみんながその御理解をま、一生懸命頂いとる。
ところが私共の、ま、信心友達である人が、その親先生が御理解なさっておられる前を、横切ってしもうた。そしたら先生がピタッと、御理解を止めてしまわれた、という事である。上の方を見ると、ちょうど山の中腹だけれども、湖のようなのがあって、ちょうどそこがスケート場になっておる、というようなお知らせであったと。ま、御神夢と思いますと。・・・?御理解を頂きよったところから見ると、御神夢だろうというので、お届けがありました。
それで私はその事についてから申しました。例えばね自転車でも様々な自転車があります。今はあの自転車はあまり利用しませんけれどね。ま自転車を色々に利用しておった時代のことを一つ思うてみられたらよいです。例えばあの競輪の人達が使うような、まいわば軽業師が使うような自転車もありますよね。はら速いですスピードが出せれる。それからまた、学生たちが通学に使うような自転車もあります、ね。
またいまごろはもう見もせんのですけれども、あれは重荷用の自転車ちゅうのがありました。私共はあれに酒の四斗樽を一つ、その上に一斗五升、一斗五升の焼酎甕をのせたり、ビールを一箱積んだりして行きよった。重荷用まるきりもう自転車でも大変なやっぱ、あれできるんですね。重荷用の自転車。自転車にも色々そういうふうにま、三通りなら、三通りにま、分けて申しましたが、ありますがね。
合楽の人達の場合はね、どうも競輪手が乗るようなね、自転車に乗ったり、まあせいぜい通学用のもので、重いものは乗せきらんという感じですね。自分の姿体いっちょが、やっとかっとであって。いわゆる信心がなんていうかきざな。先日の青年大会の時に青年の方達が頂いた御理解じゃないですけれども、ね。言うならばもう神さまがお気付けを下さる寸前までは、ま、言うならば平気でだらしない事もやっている。
そしてその辺のところを心得とる。は、この辺で、しゃんとせにゃならんなぁという時には、ぴっしゃっとしゃんとする術を覚えておる。そういうコツを知っている。だからこちらから見よると、もうヒヤヒヤ、スリルを感じる。はあ、あげなこつでよかじゃろうか。あげなこつでおかげ落さんじゃろうか。あの人どんばっかりはと思うようなですね、ところを平気で通っている。そして、自信たっぷりである。
自分は改まろうと思うたら、いつでん改まりきるから、といったようなものを。そういうようなそのタイプの人が多いごたある、ちゅうわけです。いわば信心がいわばだんだん巧者になってきて、ね、いわゆる実意丁寧、神信心というものが、非常に目が粗い、合楽の方達の場合は。言うならば、大変たとえば速い。言うならば、うさぎと亀の話がありますがね、うさぎのような方達だということ。
ほりゃもう亀さんな勝こつじゃなか。けれども途中でぐうぐうやって眠ってしまって、結局は亀さんの方が勝利を得ると言う様にですね、ね。そういう例えばね営々としてと言うかね、コツコツとでも言うかね、信心を所謂じかに一歩一歩、踏みしめ踏みしめ頂いて、力を受けていくと言う様な事には、非常に疎かであると言った様な感じなんです。信司さんあんたが頂いとおるお知らせはね、そう言う様な事ではなかろうか。
折角お互い信心、山登り途中まで出てきた。そこで途中まで来て、さあこれからが大変だから、これからひとつ本気で信心しなければ、頂上を目指す事が出来ない。これから頑張らにゃんぞと言った様な御理解えおここ頂きよるんだけれども、そこを横切ってしまう様な事にして、言うならばスケートでもするようなですかね、滑るスケートスリルを感じるような、遊びのような信心という意味じゃないでしょうか。
信心が道楽と言った様な信心。中々信心のセンスもある。ね、成程おかげを頂くこつあいも知っている。けれどもですね、その日々営々として築き上げていこうと言う様な信心。日々力て言うものは一辺に出るようなものじゃない。ほら日々の辛抱信心。そげん言うたっちゃ、私どんはもう何十年ちちから、朝参りしよります、そういう意味じゃないですよ。そういう稽古はもちろん出来ていきよりますけれども、その稽古の結果がです、ね、いわば重荷をいわば積んで行けれるような生き方ではない。
どういう時でも、どういう重荷がぼーんとかかってきても、どっこいと受けられるだけの信心の稽古が疎かになっておるんじゃないか。競輪のいわば自転車に乗るような、ね、私は感じの信心をしとるのじゃないだろうか。その、昨日、信司さんのお夢を頂いたというそのお夢の中からね、そういうようなものを感じ、そういうふうに伝えさせて頂いた。それではね、私、いつまで経っても本当の力はつかんと思う。
そういうところが欠げておるのではなかろうかと。ですからなるほど過去の事を思い出し、苦をしたり腹を立てたりとまではなかってもです、過去の事にお礼を申し上げるという程しの事になってないという事なんだ。して心のどこかにはやっぱり、あん時、あげな損をしとらなかったら、あん時、あげな災難に遭うとらなかったらと言った様なものがあるかもしれませんね。厳密に言うたら。
その事に対してお礼が言えれる。ね、あん時に本当に血の涙が流れる様な事があったかもしれんが、あったがね、あそこを通り抜けさして頂いたおかげで、あそこから芽が出てきた。あそこからおかげの道が開けてきた、と言った様な事になってない所からですね、そういう事になってくるのじゃないだろうか。今日は過ぎたる事を思い出して腹立て苦をするなよと、だからまあ私共にはあんまり用のないような感じね。
合楽の方達の場合には。過去の事を腹立てたり苦を、苦にしたりはしよらんごとあるけれども、もういっちょ、ここを厳密に頂いてみてですたい。言うなら過ぎたる事に対してお礼が申し上げれるような私共であるかという事を、ひとつ思うてみたいと思うのです。でないと例えばね、神さまのいわば本当の願いである所の、ね、氏子繁盛致しという事になてこないし末々、親に掛り子に掛り、あいよかけよで立行くと。
親にかかってだけはゆくけれども、そんなら神さまが子にかかって下さる程しの力を、いつまでも私共が頂き得なかったら、ね、いわゆる神願成就と仰いますね、神さまの願いが成就するという事になってこない。改めてですね、過ぎたる事を思い出して腹立て苦をするなと、腹立て苦はしないけれども、過ぎたる事に対して果たしてお礼の言えれる程しのおかげを頂きたい。なぜお礼が言えるかと、その節を乗り越えただけじゃない、その節の、難儀という節のおかげで、そこから芽が出ておる。
そこから伸びておるおかげを頂いてこそね、初めてね、過ぎたる事を思い出し腹立て苦をするなという事になるのじゃないかとこう思います。 これはどうぞひとつまあ厳密にね、ただ自分達が頂いてきているそのおかげの実態というものをですね、もう少しおかげを受けてきとる、おかげを受けてきとると思います。けれどもそのおかげは、度私が今日御心願に頂いた様な、成程そこから折れてもおらん、曲がってもおらんけれども何とはなしに繁盛にはなっていない。
ちょうど良い蓮根のような、竹ののような蓮根のような事できとるのじゃなかろうかと。ね、これでは、いわゆる末々繁盛致しとおっしゃる、繁盛にはなってない。いよいよ繁盛のおかげを頂くためにです、私は力を得なければいけない。それにはですね、例えば軽快な、ね、競輪用の自転車に乗るような、なるほど、それはスリルがあっておもしろいかもしれん。自分だけならそれで結構かもしれません。
けれども人まで後ろに乗せてとか、重い荷物を積む事は出来ません。少し格好も悪いし、重たい自転車ではありますけれども、百斤、二百斤位まではね、それに乗せれるぐらいなね、乗せて積んで走れれるような自転車の行き方、言うなら、うさぎと亀で言うならばです、私共に欠げておるもの、合楽に欠げておるもの。それはうさぎのような素晴らしいものを持っておる、ある意味では。
所がね時々グウグウ眠ってしまうと言った様なね、事ではなくて言うならば亀の様な信心。もう営々として一歩一歩築いていくと言う様な信心。そういう信心をひとつさして頂かにゃならんなとならんなと。是はもう私始め皆がそういう傾向がある事を、先ず分らせてもらわなきゃならん愈々、ね、過去の事を思い出し苦を、腹立てたり苦をせんだけではなくて、もう思い出しただけでも、あん時の事を思うたら有難涙がこぼれると言う様なですよね、おかげになってこなければならんというのです。
どうぞ。